【著者より】
「哲学的ゾンビ」という用語を解説する際、ほとんどの人が最初に言う文句に、「ゾンビと言ってもホントにゾンビってわけではなくて……」というものがあります。たしかに混乱する言葉だよなとは思いつつ、僕なんかは、じつはなんとなく違和感を抱くところです。というのも、「本当はもう死んでいるのに、なぜか動いている存在」として、「ゾンビ」はその内実を最も簡便に表している言葉だと思いますから。
はじめにひよたさんと「自分のサークル参加作品から二次創作作品を集めて、アンソロジー的な本を作ろう」という企画の話をした際、考えていたのは「『哲学的ジュリエット』だけは担当しないだろうな」ということでした。とても好きな話なのですが、それだけにあまりにも「とみや向き」すぎるんじゃないかな、という懸念があったのです。本作はすでに一本で完成しているし、こちらから新しい要素を加えられないようであれば、わざわざ書く意味はないかな……程度に捉えていました。
しかし一度ひよたさんのサークル作品を全部読み返すと、意外にも『哲学的ジュリエット』にだけ、初読時とは違った可能性を感じます。その可能性というのは、まぁ、「『自分』の定義にしたがって自動的に役割を演じる哲学的ゾンビの話を、完全に『漫画のキャラクター』という概念に重ねたメタフィクションとして解釈し直してみる」というものだったのですが……。それさえ思いついてしまえば、というより一度「それができる」というところを見つけてしまったのなら、自分はむしろこれをこそ外に伝えるべきだな、というふうに考え直した次第です。あとは、「自由意志のない人間が一人称視点の地の文を吹き込めるわけがない」という現実的な問題などから、色々と風呂敷を広げて、ついでに自分の好きな哲学の話を好きなだけしたら、なぜか好きな類の創作賛歌になりました。どうしてそうなったのか、すぐには語れませんが、執筆が充実していたのは確かです。
哲学という営みのおもしろみは、創作活動に似たものがあると思います。特に商業ベースに乗らない大学サークル規模での創作というものは、「することそのものがおもしろく、行為の全体がその目的である」という点で、共通しているといえるでしょう。本文では惜しくも引用できませんでしたが、ラッセルは『哲学入門』の中で、「哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力は持っている。そして問いを立てることで、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と脅威が潜んでいることを示すのである」と述べています(髙村夏輝訳)。これが物語という行為にも非常に重要な示唆であることは、言うまでもありません。
普段はかなり遠慮しているので、哲学の話を好きなだけできたのが楽しかったです。原作に添えるお話としてはだいぶ無理があったかもしれませんが、「自分がやる他者の作品」という意味で、とても楽しく書かせていただきました。改めて、ありがとうございます。
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