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中編小説「エウレカ、テセウスの気まぐれ」+原作漫画の掲載

【著者より】

文字数は23,000字程度。大学のサークルの先輩であり、『メサコン・今世・エスケープ』の表紙でもお世話になった、ひよたさんの個人誌に寄稿したものです。内容はひよたさんの短編漫画「哲学的ジュリエット」の二次創作となります。原作をそのまま掲載する許可をいただいたので、まずはそちらをお読みください。左スワイプ式です。

哲学的ジュリエット - ひよた


ひよたさんのホームページ(他作品公開あり)はこちらのリンクから。


また、本二次創作小説『エウレカ、テセウスの気まぐれ』については、下記のリンクからpdf(縦書き、二段組)をダウンロードすることができます。

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中編小説「エウレカ、テセウスの気まぐれ」 - 夢骨とみや
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エウレカ、テセウスの気まぐれ


 

僕は悦兎樹凛ちゃんのことが好きである。

ほかには、人並みにゲームが好きだったり、数学が苦手だったり、たまにお母さんの肩を叩いていたり、洗い物をしてる途中に背伸びして洋楽を聞いていたりする。好きなジャンルはチルウェーブだけど、正直ヒットチャートを見ても半分以上はよくわからないから、本当は別のジャンルが好きなんじゃないかとも疑っている。そういう日々のことを、僕はじゅうぶん、嫌いではない。

好きでもない。

なぜなら、僕には自由意志がないから。

感情がないから──。

ただ、唯一の例外はあった。樹凛ちゃん。あの子のことを考えたときだけ、僕の胸は高鳴る──おどったり、もしくは、しぼんだりする。

以前、『哲学的ゾンビになる薬』を飲んでから、僕は『そういうもの』になってしまった。

つまり、僕は僕の定義にしたがって、

樹凛ちゃんのことを好きになり。

あの子のことを考えるときだけ、感情を取り戻す。

少なくとも、僕はそう信じていて──だから、今回のことも、僕のことに限って言えば、不思議なことは何もなかった。いつも通り、平凡で安全な生活の一部だった。いや、厳密には、樹凛ちゃんとの付き合いは、とても平凡なものとは言えなかったけど……、それはいったん、置いておいて。

僕たちはその日、一緒に遊んでいた。

やっていたのは、『中国語の部屋』ゲーム。

中国語の部屋。

そういう、問題。

まず、部屋の中に、ひとりの人がいる。そして、その部屋の中には『手引書』がある。たとえば、「こういう文字列の紙が来たら、こう書き加えて返しなさい」というような。

やがて、部屋の中に、中国語の質問文が入れられる。

じつは部屋の中にいる人は、中国語がわからない。だから、その『質問文』は、ひらがなやカタカナと比べてやたらと画数の多い、ただの記号の羅列にしか見えない。それでも、『手引書』にしたがって記号を模写すれば、その『質問文』に、適切な回答を与えることができる……。だから、部屋の外にいる人には、「この部屋には、中国語を理解できる人がいるのだ」と考える。意識の重大性を揺るがすような、真に迫った哲学の思考実験である。

それを、している。

ツッコミどころは満載だけど。

そんな場面から、お話を始めよう。

「ええと、最初は……」

気持ちがないのに限りなく人間らしい僕は、ひとりごとをつぶやいた。

僕は、僕の部屋にいる。廊下には樹凛ちゃんがいる。両親は、結婚記念日の日帰り旅行で家にいないので、二人きりだ。少しどきどきしつつ──。

樹凛ちゃんがドアの下から滑り込ませた手紙の内容は、この通り。

 

『你現在感覺怎麼樣?』

 

おお、わからない。

でも大丈夫だ。樹凛ちゃんがこの部屋に置いていったマニュアルを見れば、書くべき漢字はわかる……。僕はただ、それにしたがっていればいい。

もちろん、面倒なんかない。

僕は哲学的ゾンビなのだから。

決められた行動を、『そういうもの』としてやりすごしていくのは、むしろ、十八番って言ってもいいくらいだ。

僕はシャーペンで、マニュアルに書いてある中国語を書いた。

 

『我現在覺得很幸福』

 

こっちは、なんとなくわかった。普段は感情がない──それなのに、あるかのように振る舞っている──僕にしちゃ、皮肉すぎる文面に見える。

とはいえ、樹凛ちゃんと一緒にいられて楽しいのはほんとうだった。あの子の趣味がちょっとだけ変なおかげで、いまは面と向かってはいないけれど……。

それでも。

僕は返事を書き加えた紙を、ドアの下の隙間から滑り込ませた。

そうして、僕たちはしばらく、質問文を送ったり、それに『回答』を書いて返したり、といった、一連の行動を繰り返した。

ほとんどはグーグル翻訳でつくった文らしくて、ほんとうに正確なのかはわからない。けど、僕はなんだか、ほんとうに樹凛ちゃんと『会話』できている気がして……。たぶん単純に、好きな子と手紙を送りあっているいまの状況が楽しくて、なんだかんだちょっと舞い上がったりしていたのだった。

そんな時間が、続く。

 

『你喜歡機器嗎?』

 

『我不喜歡那樣』

 

『我希望快樂的日子永遠持續下去』

 

『我也這麼認為』

 

『一個人在水族館裡,只是在做夢。

沒有人能從那裡逃脫。』

 

『我不這麼認為。

人類是強大的生物,可以用自己的意志改變世界。』

 

やがて、樹凛ちゃんの声がした。ゲームの終わりを告げる声だ。次は、樹凛ちゃんにサングラスをかけてもらって、僕がゆうべ必死に考えた『メアリーの部屋』ゲームをする予定だったのだけど……。

ただ、そこで。

ひとつ、違和感があった。

 

 

「ありがと、楽しいね! 次は私の番だね」

「ありがと、楽しいね! 次は私の番だね」

 

そう。

声が、二重になったように聞こえた。

 

「う、うん。そうだね……。あの、開けてもいいかな?」

「どうぞ!」

「どうぞ!」

もちろん。

普通に考えて、これは気のせいもいいところだ。声が二重に聞こえるなんて……、まるで樹凛ちゃんが二人いて、全く同時に発声してるみたいな聞こえ方をするなんて。そんなわけはない。うんうん。気のせいに違いない。

そんなわけがなさすぎるので、僕は特に警戒せず、僕の部屋のドアを開けた。廊下には樹凛ちゃんが、二人いた。全く同じ顔と、全く同じ服と、全く同じ体格と、全く同じ声で、僕のことを出迎えてくれた。

僕は、ほんとに、過去に例がないくらい、びびった。

「次は私の番だね! あれ、どうしたの? ん、大丈夫だよ。どっちの私を見ればいいのか、きっとすぐにわかるから」

「次は私の番だね! あれ、どうしたの? ん、大丈夫だよ。どっちの私を見ればいいのか、きっとすぐにわかるから」

 

 

テセウスの船、という思考実験をそこで連想してしまったのは、ちょっと不謹慎すぎたかもしれない。それとも、長い間樹凛ちゃんと一緒にいて、どこか毒されちゃったのか。ありうる。

仮想舞台は、ギリシャ神話。

王子テセウスは、怪物ミノタウロスをなんとか討伐したあと、ぼろぼろになった船の修理を頼んだ。船の構成物はすべて、少しずつ新品の部品や板に置き換わる。形や機能は全く同じ。でも、その船には、勇者テセウスをミノタウロスのもとまで運んだ記憶は、刻まれていない。

一方、さっき全部剥がした本家テセウスの船のパーツだけで、新しく、全く同じ設計図で船を組んでみた場合も考える。一度ばらしたとはいえ、これは──採寸の腕さえ狂っていなければ──正真正銘のテセウスの船と言えるけれど、じゃあ、テセウスの船はこの世に、新品パーツ版と旧型で、二つもあるのか? 全く同じものが?

ない──とすれば。

どちらかが、ニセモノということになる。

「……あの、樹凛ちゃん」

「うん?」

「うん?」

ほっぺたをつねりながら話しかけてみると、律儀にどちらも返事をしてくれた。ちなみに、ほっぺたは痛かった。夢じゃないらしい。嘘くさいことに。

自分の家の廊下で、立ち尽くしている……。

考えられるのは、また樹凛ちゃんが変な薬を飲んだりした可能性だった。いや、必要に駆られたり、とくべつ悩んだりもしていない(はず)のに、いまさらそんなことをするとは思えなかったけど。

それでも、現に異変は起こっている。

僕は、にこにこした二人の樹凛ちゃんに、おそるおそる、尋ねてみた。

「えっと……、『パーフィットの分離脳』ゲーム的な?」

「ちがうよぉ」

「ちがうよぉ」

 違うらしい。

 僕も僕だ。ヘンな質問をして、この現実に、なんとか合流しようとしてる感じがする……。

「さっきまで、というか僕が『中国語の部屋』に入るまではこんな感じじゃなかった、よね?」

 と、また尋ねてみると。

「うん、そうだね」

「いや、ほんとうは」

 と──『二人』の言うことは食い違った。

 「いや、ほんとうは」と話をしようとしたほうの樹凛ちゃんが、あわてたように自分の口を両手で塞ぐ。

 ……なんだろう? 全く同じっていうわけじゃない──たとえば、鏡や立体映像を用いたトリックでこの姿を見せてる、ってわけでもない──ってこと、だよね。

 だとしたらますますお手上げだった。

考えるべきことが多すぎる。

「ちょっと待ってね……」

右手を前に出しながらことわって、僕はこの状況について考える。

これ以上なく突飛なことだけど。

樹凛ちゃんは、僕と遊んでいる間に、『二人』になっていた。

どうしてそうなったのか……は、推測しても仕方ない気がする。いまの段階だと、まだわからないことだらけだ。樹凛ちゃんに話を聞くしかないんだろうけど……、でも、全く同じ話を『二重』にされても、正直、混乱してしまう。

それに、さっきは簡単な受け答えだったからかろうじて聞き取れたけど、「うん、そうだね」と「いや、ほんとうは」みたいに、二人の言葉が食い違うことだってある……らしい。さっきみたいな『別の話』を同時にされてしまうと、聞き取れる可能性はもっと低くなるし……。

と、そこまで考えたところで。

僕は──ある可能性に気づいた。

「ねえ、樹凛ちゃん」

 僕は尋ねる。

さっき、『口を噤んだ』ほうの樹凛ちゃんに。

 そっちの樹凛ちゃんは、僕と目が合うと──こっちが真剣な目をしていて、怖がらせちゃっただけかもしれないけど──頬を赤くして、目を逸らしてしまった。

 それでも、聞く。

「さっき、隣の『樹凛ちゃん』と違うことを言ってあわててたのは──もしかして、自分たちは同じことを言わなきゃいけないと思ってるから?」

僕のことばに、話しかけたほうの樹凛ちゃんは目を丸くした。そして、何かを言いたげにするが──隣の『樹凛ちゃん』が何も言わないのを見ては、口を噤んでいる。

なるほど。

なら、やりようはあるのかもしれない。

「樹凛ちゃん……いいかな?」

今度は、僕は、二人の樹凛ちゃんを交互に見やりながら、同時に話しかけた。そして、さっき話しかけなかったほうの樹凛ちゃんが持っている紙を、

「ごめん、少しもらうね」

 と、数枚分けてもらう。

 樹凛ちゃんは笑顔で応じてくれた。

 さっきのゲームに使った紙だ。

 ほかに必要なもの──シャーペンは、紙を分けてくれたほうの樹凛ちゃんは持っているので、ぼくは、なんだか気まずそうにスカートのポケットに手を入れている、さっき話しかけたほうの樹凛ちゃんに、自分が使っていたシャーペンと紙を手渡した。

 樹凛ちゃんは戸惑いつつも、受け取ってくれた。

僕は『二人』に向けて──緊張してなさそうな笑顔で、告げる。

もう、僕は至って冷静だった。なぜなら、僕には自由意志がないのだから。

適切な判断が、できる。

僕は言った。

「事情を聞きたいから、その紙に何が起こったかを書いてほしい。ただ、その際、どちらかの『樹凛ちゃん』には、僕の部屋に入ってもらう。片方の自分が何を書いたかわからない状況で、本当のことを書いてもらう──それでも、いいよね?」

僕の提案を聞き届けた『樹凛ちゃんたち』は、

片方は、「うん!」と快諾し──。

片方は、「うん……」と渋々了承した。

はっきり言って。

どちらも、まだ、ホンモノにしか見えない。

 

3──『廊下側』         

 

あのね、『中国語の部屋』ゲームをしてる途中……。気づいたらもう一人の私がそこにいたの。でも、心配しないで。あの子はニセモノで、きっとすぐに消えてくれるから。

とはいえ、どうしたら信じてもらえるかな。

いま、筆跡を見比べてるところかしら? でも、変わらないでしょう。そこは、私も──『私』も、なんとなくわかるんだ。何せ、全く同じ姿と、声だもんね。私たち。

でも、『手紙の内容』はきっと違うはず。

どっちが『悦兎樹凛らしい』のか──きみなら、きっと突き止めてくれるって信じてるよ。

だって、私の大好きなきみだもん!

だから、ね。

ニセモノを追い払って、さ。

元通りの日々に、二人で一緒に行こ?

 

 

 

4──『部屋側』         

 

きっかけが何かは、わかってる。でも、それはきみにはまだ言えない。ごめんなさい。

ただ、『二人目』が出たタイミングなら……それくらいは、正直に告白するね。

昨日、お風呂に入ってる間。

きもちよく湯船につかってたら、そこに、裸の私が急にあらわれて……、あ、ごめんね、あの、想像しないでね? ただでさえヘンな絵面なのに、裸とか。恥ずかしいから……。

ただ、そうだ。不思議なことなんだけど。

私が──『私』が服を着ると、

 『あの子』も、同じ服を着るんだよね。

 私から言える手がかりは、ごめん、このくらいかな。

 怪しいよね? でも、大丈夫。

 きっと、きみなら──『悦兎樹凛らしい』のはどっちなのか、見抜いてくれるって信じてるから。

 だって、私の大好きなきみだもん。

だから、ね。

ニセモノを追い払って、さ。

元通りの日々に、二人で一緒に行こ?

 

 

名案を思いついたと思ったけど、手紙の件は、驚くほど効果はなかった。こんなことなら、哲学の本だけじゃなくて、SFやミステリをもっと読んでおくべきだったのかも……。とはいえ、少なくともホームズは、こんな妙ちきりんな謎を解いたことはなかっただろうけど。

一人で部屋に入ってもらったのは、「いや、ほんとうは」のほうの樹凛ちゃん。

ぼくは廊下で、「うん、そうだよ」のほうの樹凛ちゃんが、壁を下敷きにして器用に手紙を書く姿を見ていた。

あがってきた手紙は、ぼく一人だけで読んだ。うまく説明できないけど……、二人に『ヒント』を与えるのは、あまり軽率にやらないほうがいい気がする。

ともかく。

筆跡は、先に読んだ『廊下側の樹凛ちゃん』の手紙が指摘していた通り、ぴったり同じだった。もちろん、普段の樹凛ちゃんの字とも、変わっているようには見えない──さっき『中国語の部屋』でさんざん見てきたので、これは断言できる。

次に、『二人』になったタイミング。

これは、やっぱり食い違った。

『廊下側の樹凛ちゃん』は、ぼくたちが『中国語の部屋』ゲームをしている途中だと主張し。

『部屋側の樹凛ちゃん』は、昨日、お風呂に入っている途中だと説明した。

 ただ、これでどちらがニセモノなのかを特定するのは、さすがに難しそうだ。あまりにも情報がない。

いちおう、『部屋側の樹凛ちゃん』の言い分──湯船につかっている最中に『二人』になった──なら、『鏡』とか『水面』とか、それっぽいモチーフは登場するけど。

 とはいえ、そんな可能性まで考え始めたら、もう何でもありだ。『廊下側の樹凛ちゃん』の言い分──『中国語の部屋』ゲームをしている途中に『二人』になった──も、それっぽさで言えば、捨てがたい。

なぜなら、『中国語の部屋』ゲームは、ぼくらにとって重要なものだから。

 『中国語の部屋』の中の人物は、中国語の知識がないのに、中国語の知識があるかのように振る舞う。

 一方、ぼくたち『哲学的ゾンビ』は、自由意志がないのに、自由意志があるかのように振る舞う。

そんな思考実験による相互作用が、樹凛ちゃんを二人に分裂させたのかもしれない……。ただ、この考え方も、向かう先は、なんでもありだ。どちらかに絞ることはできない。

次に『二人』には、帽子をかぶってもらった。

僕の部屋にあった、男物のキャップ。野球チームのロゴが刺繍されている、黒いやつ。親戚の人の家に家族で遊びに行った時、いらないからと言ってもらってしまい……、そのまま、放置してたやつだ。

樹凛ちゃんは、案外そのキャップがかなり似合った。ぼくがこの子のことを「哲学が好きすぎるちょっとヘンなセンスの子」だと知らなかったら、「外で遊ぶのが好きな野球少女」だと勘違いしてしまっていたかもしれない。

ただ、この時は、そんなことに思いを馳せている暇はなかった。『部屋側』の──どこか自信なさげだったほうの樹凛ちゃんの言い分が、証明される結果となったからだ。

僕はまず、『廊下側の樹凛ちゃん』に、帽子を渡した。

そして、彼女が帽子を被ると──、

 『部屋側の樹凛ちゃん』も、同じタイミングで、帽子を被ったのだ。

 つまり、その場に帽子は二つ生まれた。

 被った、というか──「いつの間にか被っていた」というのが正しい。僕が「樹凛ちゃんが帽子を被った」と認識した時、その『結果』だけが、同時に『二人』に共有されていた。

 まるで、鏡に映したように。

 あるいは、アクションゲームで、操作キャラが分裂するアイテムを取った時みたいに。

触ってみても、どちらからも『帽子』の感触がした。

ちなみに、それをたしかめたということは、僕が、帽子越しとはいえ、樹凛ちゃんの頭を撫でたってことで……、それは、すごく緊張したんだけど、同時に嬉しくもあって。こんな状況でなければ、と何度思ったかわからない。

帽子は、記念に持ち帰ってもらった。二人一緒に帰るとなると、顔を少しでも隠す手段が必要だろうし。次のゲームで使う予定だったサングラスも渡せばよかったんだけど……、それは、純粋に忘れてた。

僕は、最後に、二人の樹凛ちゃんに、思ったことをそれぞれざっくばらんに言ってもらった。

最初はターン制にしようとしていたけど、だんだん二人とも熱がこもり始めたから、順番制度はなしにした。二人ともに、思いついたことを、すぐ言ってもらう形にした。

それを──。

僕の親が、「そろそろ帰る」というメッセージを僕のスマホに送ってくるまで、めいっぱい続けてもらった。

 

 

「なんでこうなったんだろ、ね?」

 

「もうニセモノはわかった?」

 

「思ったことをそのまま喋ればいいんだよね? 私はこの状況で、『シュレディンガーの猫』の思考実験を連想したな。だって、『中国語の部屋』ゲームをしている途中、部屋の中にいたきみには、私が二人だったか一人だったかわからなかったんだもんね。ちなみに、あなたは?」

 

「相手の喋る内容に制限をかけるのは卑怯じゃない? でも、ちょうど私もそういう話をしようかと思ってたところではあったよ。私は『観念論』を連想した。思考実験じゃないけど……」

 

「待って。観念論って、いったい誰の?」

 

「バークリー」

 

「ああ、それならいいや」

 

「部屋の中のテーブル。自分が部屋の外にいるとき、観測していないからと言って、それが存在しないことにはならない。なぜなら、あらゆる存在するものは、神に観測されているから」

 

「でも、それってトートロジーじゃない? 神に観測されていることがこの世にあるものの存在の条件だとするなら、すべての存在するものは神に観測されているから、存在する、って言い回しになってしまう。でも、それは根拠がないよ」

 

「そうかもしれない。でも、たとえば、それは、小説やゲームなんかを想像すると理解しやすいの。作者、──神が想定しなかったものは、どうしても、そこに存在できない。映画に偶然はない。それと同じ」

 

「ああ。たしかにおもしろいかも! それはあなたが独自に考えたことなんだね」

 

あの。

……二人とも本物、ってことはないのかな?

何かの理由で分裂したってだけでさ。

だって、いまのところどっちもニセモノなんかには──。

 

「それはない」

「それはない」

 

 そっか。ごめん。

 

「私たちには感情がない」

「悦兎樹凛にはいらないもの」

「『そういうもの』として生きている」

「自分の意志でどうにもならない物事には悩むな」

「記憶しておきなさい」

「私は私に与えられた役を演じ続ける」

「でも、逃げた」

「部落がどうとか?」

「宗教がどうとか?」

「運命ってものがあったとして、仮にそれがほんとうに定義通りのものであったとするなら、わたしたちが『運命に抗った』と認識している行動さえ、じつは、あらかじめ決まっていたことだったのかもしれない──そう思って、不安になったりしない?」

「決定論者とか、予定説。カルヴァン主義」

「哲学的ゾンビになる薬」

「ゾンビって言っても、ゾンビじゃない」

「本当に?」

「そうそう、これってスワンプマンの話と同じだね。どちらかが、これから雷に打たれて、死ぬのなら」

「どちらかがゾンビということ?」

「ゾンビが本物」

「ゾンビは偽物」

「偽物は本物より本物らしい。本物になるよう、つくられているから」

「本物のほうが、より本物性が高い」

「本物性を何パーセント持っていたら本物なのかな?」

「中国語の部屋も、トロッコ問題も、AIの分野で活発に取り扱われてきた思考実験だよね」

「チャット型AIは、哲学的ゾンビにならないの?」

「機械に感情がないって断言できるのかな。私たちは、自分以外の人間の感情すら、一度も感じられたことはないのに」

「あるいは、自分以外の人間の感情には、勝手に共感してしまうのに?」

「他人の痛みが理解できない」

「他人が痛がっているのを見ると、痛い。ほかには幻肢痛?」

「これからの哲学はどうなるの?」

「『そういうもの』」

「『そういうもの』」

「生きてるのは誰?」

「死んでるのは誰」

「お願い、当てて」

「世界に望まれているほうの私」

「哲学的ゾンビ」

「哲学的ゾンビ」

 

 

「ところで、きみは、本当に哲学的ゾンビなの?」

「∅」

「私には、そうは見えないんだよね」

「∅」

「きみって、じつは、感情を失ってないんじゃない?」

 

 

その日、お風呂で湯船につかるとき、ちょっとこわくなってしまった僕のことは、どうか責めないであげてほしい。

自分と話すというのは、きっと、気持ちのいいことじゃない……だろう。

肩までを、四十一度のお湯であたためる。

いまは冬だった。

僕と樹凛ちゃんが出会ったのはまだ半袖の季節だったから、ずいぶん時が経ったものだなと思う。

そう、つまり。

僕が哲学的ゾンビになってからも、それだけの時間が経ったということ──。と、そこまで考えたところで──。

 

 じつは、感情を失っていないかもしれない?

 

という言葉を、思い出す。

もう、『部屋側』かも『廊下側』かも区別できなくなってしまった、樹凛ちゃんの言葉を。

僕に──感情が──自由意志が──残っている?

ありえないさ。

だって、僕は覚悟のうえで、あの『哲学的ゾンビになる薬』を飲んだんだから。

たとえ、無機質に運命にしたがう『そういうもの』になってしまったとしても。それでも、僕たちは、お互いを好きでいられる。

 それを証明するために──。

 あの子と、同じになったんだから──。

「……そうでなくちゃ。

報われないのは、きみじゃないか」

お風呂の中に、顔を半分くらいうずめた。呼吸を器用に使って、ぶくぶくと、泡を立ててみる。

あのあと。

母さんからのメッセージがスマホに来ると、僕は『二人』を帰した。いや、というよりは、

「じゃあそろそろ、お暇するね」

「じゃあそろそろ、お暇するね」

 と、二人揃って、帰る宣言をしたのだった。

そのまま帰して大丈夫なのか心配だったけど、そういうのは、大丈夫らしい。『部屋側』の樹凛ちゃんの手紙を信じるなら、昨日の夜もそれで無事だったことになるのだから、まぁ、いいのかもしれない。少なくとも、ドッペルゲンガーみたいに、会えばどちらかが消滅するような類のものじゃない。

どちらかが、どこかに泊まるのか。あるいは、裏口や窓から家に入れば平気なのか。両親に話して了解を得られそうなのか。樹凛ちゃんの『家』に関しては、僕は首をつっこめそうにはなかった。そう思わせる圧が、いつも、彼女にはある。

思わせる──。

「……いったい、どういうことなんだよ」

哲学的ゾンビではないかもしれない僕たち。

哲学的ゾンビかもしれない僕たち。

連想したのは、量子論。二重スリット実験。一つのものを観測するまで、それが『波』と、『粒子』、どちらの特性を持つかは確定できないという、あれ──。でも、それについて考えたところで、なんにも答えは出せそうになかった。

分裂のことなんて、全部夢なのかもしれない。それなら、いいと思う。もうとっくに僕たちの『おはなし』は終わったと思っていたし、いまさら妙な事件に巻き込まれるのは、とてもいやだった。

世界が、僕たちに意地悪をしてきているみたいで。

そもそも──いままでと比べて、今回のことは、あまりにも支離滅裂すぎる。帽子は増えるし。一人が、二人いるし。いままでの僕たちの世界観とは、何もかもが違う。

だから、全部夢なのかもしれない。

悪魔が見せている夢なのかもしれない。

でも、それも哲学的に考えると──。

「……哲学って、疲れるな」

僕はいつの間にか、そうこぼしていた。

最後に連想したのは。

デカルトの言葉。

方法的懐疑について、だった。

この世界で私が観測することは、全てが虚構なのかもしれない。実在していないのかもしれない。悪魔が私に術をかけて、『そういう感覚』を与えているだけなのかもしれない。私の脳は、じつは水槽に浮かんでいて、電気信号で『そういう感覚』を与えられているだけなのかもしれない。この世にあるすべてのものは、疑いうる。

でも、なんにせよ。

悪魔だろうと、水槽の電極だろうと。

術をかけられている私は。

電極を繋がれている脳は──確実に存在する。

われ思う、ゆえにわれ在り。

われ、思わされている、

としても、なればこそ、われ在り。

……だったら。

 

二人の樹凛ちゃんのどちらが本物かなんて、僕に決める権利があるんだろうか?

 

いや。

それを決めるのは──きっと、僕じゃない。

樹凛ちゃん自身、なんだと思う。

……結論を棚上げしてる、って言われるだろうか。そうかもしれない。でも、僕は、不思議とこの結論に納得してしまった。湯船の中で。お風呂に入ってる途中に、王冠を壊さずに体積を測る方法を思いついたのは、アルキメデスだっけ?

僕は自分でも首をかしげそうなくらい、僕が考えた結論に、安心している。

デカルトのアイデアから連想したから、でもなく。

問題から目を背けられるから、でもなく。

自分のことは、自分で決める。

その発想に──同化している自分がいる気がした。

 ただ、もちろん。──僕にとってその結論が一番安心できるものになるのは、もはや、ある意味当たり前だった──ってことに気づくのは、まだ少し先のことになる。

予感を、見出してはいた。

その正体は、まだわからなかったけれど。

 

 

翌日、夕方。

僕は樹凛ちゃんを呼び出した。

 スマホのメッセージを受け取ったのが『どちら』の樹凛ちゃんだったのかはわからない。ただ、文面は、こうだ。

『ごめんね、預けておいた帽子持って、公園まで来て欲しい』

樹凛ちゃんは、『わかった』って返してくれた。

過去の出来事をこんなに引きずるのも、もしかしたら、ちょっとヘンかもしれないけど。

でも──気づいたら、そう打っていた自分がいた。

なぜかあのときに似るように、僕はカッターシャツを着て、そのうえに軽い上着を羽織り、外へ出た。例の公園に着くまでのことは、ほとんど覚えてない。気がついたらそこにいた、みたいな感じだった。

樹凛ちゃんが立っていた木の下に、僕は着く。

しばらく待っていると、

「おまたせ」

「おまたせ」

 って、樹凛ちゃんが来た。

 二人の──樹凛ちゃん。

 両方が、全く同じ服装だった。あのときと似たセーラー服。違うのは、それがどうやら長袖らしいことと、軽い上着が羽織られていることくらい。

 帽子は、持ってなかった。

 なぜか、僕も、それを指摘することができなかった。

「ううん……。いま、着いたところだよ」

「そう? ならよかった」

「そう? ならよかった」

「それで──どっちが『偽物』か、わかった?」

「それで──『本物』がどっちか、わかった?」

二人の樹凛ちゃんは、そんなふうに重ねて尋ねてきた。音が渋滞して聞き取れない部分もあったけど、それでも何を言っているのかは、わかる。

「……うん」

自信なさげになったけど、うなずく。

 どちらが『本物の樹凛ちゃん』か。

 どちらが『偽物の樹凛ちゃん』か。

僕の答えは、決まっていた。

 

やっぱり、どっちも本物なんじゃないかと思う。

 

不思議な話、ではあるんだけど。

でも、そうとしか思えなかった。

理屈じゃない。哲学について話しているときの、楽しそうな顔。僕と目が合うと、微笑んでくれたり、逆に目を逸らしてきたりするところ。昨日ずっと家にいて、一緒にいて、感じたことのすべて。

それが全部、どちらの樹凛ちゃんも『本物』だって、言っている気がした。

根拠もないし、頼りない結論だけど……、それでも、これが僕の答えだった。理屈の合わない部分はこれから埋めていけばいい、とも思う。それでも、きっと大丈夫だ。

僕と樹凛ちゃんは、これからもずっと一緒にいるんだから。

だから──ちゃんと、伝えよう。僕の結論を。

僕が考えた結論を。

「最初に聞いておくね。昨日、僕の隣で手紙を書いてくれた……『廊下側の樹凛ちゃん』はどっち?」

 僕の言葉に反応して、こちらから見て右側の樹凛ちゃんが手を挙げた。

『廊下側』の樹凛ちゃん。

手紙には、「『中国語の部屋』ゲームをしてる途中に、『二人目』があらわれた」って書いていた。

「ありがとう、もうおろしていいよ。それで……、昨日僕の部屋で手紙を書いてくれた、『部屋側の樹凛ちゃん』はどっち?」

僕の言葉に反応して、こちらから見て左側の樹凛ちゃんが手を挙げる。

 『部屋側』の樹凛ちゃん。

 手紙には、「昨日お風呂に入ってる途中に、『二人目』があらわれた」って書いていた。

 うん。

 大丈夫だ。

「僕……ちゃんと、答えを決めてきたから。じゃあ、言うね」

 樹凛ちゃんは、これは、どっちも、何も答えなかった。相槌も打たない。ただじっと、僕の答えを待っている──って感じだった。

告白した時のことを。

少し、思い出している。

神妙な表情をした二人の樹凛ちゃんに向けて、僕はゆっくり口を開くのだった。これって、緊張は、するけど。

大丈夫、決まってる答えを言うだけだ。

そう、自分に言い聞かせた。

と。

まさに、そのとき。

一瞬、自分がおかしくなったのかと思った。

僕は、『部屋側の樹凛ちゃん』を指差して、言った。

僕が、『部屋側の樹凛ちゃん』を指差して、言っていた。

 

「きみがニセモノだね。早く消えてよ」

 

 

そのとき。

たぶん、全部の謎が解けた。

僕は、やっと、色んなことを理解した。

僕の身体に、何が起きていたのか。

僕は、もう、台詞を作る力をなくしている。

 

僕は、いつの間にか、『部屋側の樹凛ちゃん』に。

ぴんと、人差し指を突きつけていた──責めるみたいに。

僕は、あたかも他人を見るみたいに、その全身を視界におさめていた。

『ニセモノ』だと指摘された『部屋側』の樹凛ちゃんは、このとき、すごくびっくりして動揺したような表情をしていた──。それは、そうだろう。僕も同じ状況だったら、過去に例がないくらい、びっくりしてしまうと思う。いや、というか、僕はその感覚を知っているのだ。

だって。

このとき。

僕の身体も──二つに分裂していたんだから。

 

 

一瞬のことだった。

その一瞬で、全部わかった気がした。

いままでのこと。これからのこと。

昨日、樹凛ちゃんが何を考えていたのか。

一度わかってしまえば、最初から知っていたみたいに、僕はすんなりそれを受け入れられた。つまり、ずっと見出していた予感。僕は、あのとき、僕たちに何が起こっていたのかを、すぐに理解した。

 僕は、『部屋側』の樹凛ちゃんの手を取って。

 すぐに、『もう一人』の僕たちがいない場所まで、駆けだした。

 少しだけ、合間に与太話をするなら。

 好きな子の、手を引いて走る。

 もしかしたら、ずっとやってみたかったことかもしれなかった。

10

 

漸く、って言ったらよくないのかもしれないけど。

要約の始まりだ。

ここからは、よくわからないことは、きっと起きない。それに、僕たちも、あんまりそういうことは言わないと思う。だから、大丈夫。

最初から、自然だった。

このお話は、全部ちゃんと理解できるように、つくられていたんだ。

走り回って、僕たちは、どこかの適当な塀の上に腰掛けた。ヘンな格好かもしれないけど、なんだかそうしたくなったのだった。僕たちだって、たまには、理屈のないことをするものなのかもしれない。

背中側には、もう誰も住んでなさそうな家の、豪華な庭があって。

正面側には、ただ道路があった。

ぜんぜん違う二つの世界を塀が区切っていて──僕たちは、その境界線のうえにいる。って言ったら、ちょっと、わかりやすすぎてるのかもしれないけど。

さて。

僕は、塀のうえに器用に座ったまま、樹凛ちゃんのほうを向いた。

目の前にいるのは、『部屋側』の樹凛ちゃん。

お風呂に入っている途中に二人目があらわれた、と言い、僕の帽子をもらってくれたほうの、僕の好きな女の子。

彼女に対し、僕は、

「たぶん、全部、わかったと思う」

 ことわりもなく、そう告げる。

その樹凛ちゃんは、いつの間にか、目に涙を浮かべていた。

でも、けっしてそれを頬にこぼしたりはしない。

ひどく悲しいことだけど、きっと泣き方がわからないんだと思う。少なくとも、この半年間──僕たちは、泣くことなんてなかったし。

でも樹凛ちゃんは、強い子で。

やがてその涙すらも袖で拭うと、

「でもさ、どこから説明したらいいかわかんなくなっちゃうよね、これって」

 って、樹凛ちゃんは、言った。

 ちょっとやけになったみたいに、笑みを交えながら。

 僕は「そうだね」と言い渡したあと、

「でも、がんばって整理してみる。だから、聞いてほしい」

 と、真剣に樹凛ちゃんの目を見つめながら、伝えた。

 樹凛ちゃんは、やっぱり頬を赤くしたけど、今度は目を逸らさない。

 少し迷ったようにしたあと──、

「わかった」

 とだけ、答えてくれた。

 眩しい夕焼けが背中に当たっているのを感じる。僕のほうが少しだけ背の高いから、樹凛ちゃんの身体は、すっぽり日陰に入っていた。冬にしてはあたたかい日だった。

 答え合わせを始める。

 

「まず、『同じ人間が二人あらわれる』なんて、普通はありえないことだよね。僕たちにそんなことが起こる心当たりなんて、なかった。僕たちは、一緒になってから、ちょっとヘンな哲学がらみの遊びこそしてたけれど──怪しいものには、お互い触ってないはず。

となると、今回みたいな、目に見えて『おかしい』現象が起こるきっかけは──やっぱり、あれしか思い浮かばない」

「……哲学的ゾンビになる薬」

「そう」

 僕はそんなに頭がよくないので、たどたどしくなりながら、だったけど、それでも一所懸命に、確認を進めていった。樹凛ちゃんも僕も、お互いとっくに知っている真実を。

 それでも、言葉にしないと意味がないって、感じたから。

 僕は樹凛ちゃんのサポートを受けながら、続けた。

「あの薬に、どこか『副作用』のようなものが残る余地があったのかもしれない。そう考えると、どうしても、ある問題について考えなくちゃいけなくなる。

 つまり──僕たちは本当に哲学的ゾンビになったのか」

自分の言葉を一つ一つ、間違っていないか確認しながら、語った。

そう。

それは、この半年間、ずっと目を背けてきた問題。

あの薬が効いていたのかどうか? そんな不安が、本当は、ずっと付きまとっていた。哲学的ゾンビでいないと、『役割』を演じるだけの状態でいないと──樹凛ちゃんが、報われない。

こんな状態になっても、僕たちはお互いを好きでいられるんだって、証明したかった。

僕にとっての、運命に抗うための戦いが、それだった。

でも──。

運命ってものがあったとして、仮にそれがほんとうに定義通りのものであったとするなら、わたしたちが『運命に抗った』と認識している行動さえ、じつはあらかじめ決まっていたことだったのかもしれない。

と、言っていたのは、どっちの樹凛ちゃんだったか。

 僕は、告白した。

「ごめんね。樹凛ちゃんは嫌かもしれないんだけど、はっきり言っちゃうよ。

 この半年間、僕には、感情があった。感情も自由意志も、片時も失ってなんかなかったんだ」

僕の言葉を聞くと、樹凛ちゃんは、また泣きそうになって。

塀のうえにぺたんと両手をついて、僕の顔を覗き込んでくれた。

そして──涙声で──言った。

 

「でも、同時に、感情も自由意志もなくしちゃったんでしょ?」

 

僕は、うなずく。

樹凛ちゃんは、とうとう泣き出してしまった。塀についたはずの両手を顔に持ってきて、塞ぎこんでいる。

指の隙間からは涙があふれだし続けて、正直、見てられないくらい、つらい光景だった。「私のせいだ、私のせいで」って、ずっと、潤んだ声でこぼし続けていた。

樹凛ちゃんのせいじゃないよ、って言ってあげたかったけど。

その前に、最後のピースだけ埋めてしまう。

お互いすでに知っていることを、確認のためだけに、わざわざ口に出す。それはとても強い痛みが伴う工程だったけれど、でも、やらなくちゃいけないと感じた。これが、僕にとっての、最後の『そういうもの』、だから……。

最初で最後の、種明かし。

塀のうえ。

僕は言った。

「この半年間、僕の身体の中には『哲学的ゾンビになった僕』と『哲学的ゾンビにならなかった僕』の二人がいた。僕の身体の主導権を握っていたのは、ずっと哲学的ゾンビの僕だったけど、哲学的ゾンビは普通の人間と区別がつかないから、僕は自分の身体の主導権を失ってしまっていたことに、半年間ずっと気づけなかったんだ」

 

11

 

たまに、想像しては不安に思うことがある。子どもみたいな思いつきだけど……。人が死んだら、本当に、意識も一緒になくなるんだろうか。

もし、身体を動かせなくなるだけで、心そのものはずっとその身体に宿り続けているのだとしたら?

そんなことを考えると、とても怖くなった。

この半年間。

僕は──自分がもう『ゾンビ』になっているなんて、思いもしなかったんだ。

涙ながらに、樹凛ちゃんは語った。本当は泣いていてそれどころじゃなかったはずなのに、その言葉は、不思議なほどクリアに、僕の耳に届いた。

あるいは──クオリアに、届いた。

「私たちがあの薬を飲んで起こったことは、本当は『自分自身が哲学的ゾンビになること』じゃなかった。『自分の身体の中に、自由意志のない自分と自由意志のある自分が、両方生まれる』ということだったんだよね?」

 僕は。

 うなずく。

 いつの間にか泣き止んでいた樹凛ちゃんは、塀のうえに、バランスをとるように左手を置いた。そのうえに、僕は少し調子に乗って、自分の右手を重ねる。

 少しでも、存在を感じられるように。

「私も、そうだったんだけどね。言えなくて、ごめんなさい。ただ……、だから、きみは、いままでものを思考することができたんだ。薬を飲んだあとも、『きみ』として、まるで小説の地の文を紡ぐみたいに、意志を持って『感じる』ことができていたの。でも……」

「──『カギカッコ』の中までは、変えられない。それを司っているのは、『自由意志のない僕』だから」

 樹凛ちゃんは、またうなずく。辛いことをさせている自覚はあったけど、それは続いた。

感情を、失っていると思ってた。

でも、それは、きっと珍しいことじゃなかったんだ。

 「自分には感情がない」なんて──きっと思春期の男女が、一度は思うようなことだから。

哲学書を読みふけって、チルウェーブを聴く、背伸びしてしまいがちな子どもなら、きっとなおさらだ。

感情を失っている僕と、感情を失っていると思い込んでいた僕。両方の自我は、これまで、一つの身体におさまっていた。『僕』としてはたらき続けていた。

でも、それもこれまでだ。

確認としては、これが最後になる。もうわかりきってることで、もったいぶっても、好きな人を傷つけてしまうだけだから──僕はそこで、きわめて簡潔に喋った。

「あの『もう一人の僕』や『もう一人の樹凛ちゃん』は、『哲学的ゾンビのほうの僕たち』だ。いままで、僕たちがとる──とろうとする言動は、一致してた。でも、半年の月日が経ったことで、二つの自我のとろうとする言動は乖離してしまった。だから、僕たちはこうして元の身体から分離してしまったんだ」

 これが、真相。

 樹凛ちゃんは俯いたまま、「……うん」って肯定する。

驚くほど冷静に、僕はこの種明かしを受け入れていた。

納得のいく話だった。

もしかしたら、と、こうも考えられる。もともと人の身体の中には『自由意志のある自分』と『自由意志のない自分』が存在していて、あの薬が起こした現象は、ただその『位階』を入れ替えるというだけのことだったのかもしれない……。

けど、とにかく。

 いままで、それに気づくことはできなかった。

なぜなら、哲学的ゾンビとはそういうものだから。

「まるで意志があるかのように行動し、ものを語る」──『物語る』。

それが、哲学的ゾンビというものの定義であり、だから、あの薬を飲んでからずっと、僕が「自由意志を持って何をするか決めたときの行動」と、全く同じものが、『僕』の身体からは出力されていた。

 でも、今回だけは、一つだけそれが食い違った。

 なぜなら、自由意志は変わり得るから。

 月日が経てば、『何かを考えた回数』も増えていって、ものの見方が変わってくる。簡単に言えば、人は、変わる。

 物語の読み方も、変わってくる。

 僕は次第に、『僕らしくない僕』になっていた。普通の人にすぎなかった僕から、樹凛ちゃんを救おうともがく、かっこつけた、小説のキャラクターみたいな僕に。まるで、僕の人生を物語として編む主人が、変わってしまったかのように。だから──ようやく、『僕』を操作していたのが、『自由意志のない僕』だったことに気づけたのだ。

根拠はある。

僕は樹凛ちゃんが二人に分裂したことで──過去に例がないくらい、びっくりしているんだから。

「……そう。だから、私が『偽物』だよ。きみの家に行くのが楽しみで──お風呂できみのことを考えてひとりごとを言おうとしたとき、『あの子』から分離した、この私が、さ」

 樹凛ちゃんは、ため息をたくさん含ませてそう言った。絶望を吐き出すみたいだった。

哲学的ゾンビは、変わらない。

変化することがない。

僕とは別の意味で、まるで漫画のキャラクターみたいに──変わらない。ずっと『その状態』で固定される。感情も意志もなく、ただただ『悦兎樹凛』らしい言動を繰り返す。

その意味じゃ、本物になろうとする偽物であり。

同時に、一切解釈のブレを許さない本物でもある。

でも──僕は、それに気づいても。

昨日出した結論は、変えたくなかった。

「僕は、やっぱり、どっちも本物だと思うよ」

 僕は空を見上げながら、そう言った。

そこには、紫色の雲が広がっている。

ちょうど真上には、たぶん、夕焼けと雲の境目ができているんだと思う。いま雲が紫色になってるのは、あの夕焼けの逆光を受けてのことだから。それに、背中には、やっぱりあたたかい日差しを感じてる。

でも、そっちを振り向くことはできないと思った。

僕は、あのとき公園の光の中へ歩いていった僕ではないし。

何より──目の前には、樹凛ちゃんがいるんだから。

本物の、大好きな人が、いるんだから。

「そんなの、ずるいよ」

でも樹凛ちゃんは、譲らない。

「だってわかってるんでしょう? その先に、何があるか。何が、起きるかもしれないのか」

「わかってるよ」

樹凛ちゃんが急に塀についていた右手をあげて、僕のほうにのばしてくる──そこでバランスを崩す。

僕は慌てて、両手で樹凛ちゃんの身体を支えた。すぐ離してしまったけど、たしかに、上着の布擦れも、その下の体温も、感じた。

樹凛ちゃんはもとの位置に、塀のうえに右手を戻した。

わかってる。

どちらも本物。

そんなことは、ありえない。

世界は、そんなことを許してはくれない。

つまり、どちらかが消える可能性がある。

 

そう──僕たちはどうしようもなく、そのことを理解してしまっているのだった。

最初に考えたことを、思い出す。

以前、僕たちは議論したことがあった。

テセウスの船はこの世に、新品パーツ版と旧型で、二つもあるのか?

ない。

別々の基準で見れば、たしかに、それらは同じものだと言えるのかもしれない。テセウスの船のパーツを入れ替えながら作った新品パーツ版は、元々テセウスの船だったから、テセウスの船だ。テセウスの船のパーツを使って一から組み直した旧型は、パーツが同じだからテセウスの船だ。

でも。

同時に二つのテセウスの船に乗ることは、できないんだ。

王子テセウスは、次の航海のため、どちらかの船を選ぶ。

哲学的な問題なんて、本当は関係ない。

テセウスが乗る船、ただそれ一つこそ──、

『テセウスの船』、なんだから。

悲しいけれど。

やりきれないけれど。

あのとき僕たちがやったのは、そういうことなんだ。

新しい運命に、自分たちを嵌め込むことだったんだ。

「いやだよ」

 樹凛ちゃんは言った。

 泣きながら。

「きみが消えちゃうのは、嫌だよ……!」

 

12

 

 『部屋側』の、つまりいま僕の目の前にいる、感情を持つ樹凛ちゃんが、僕にこの仕組みを説明しなかったのには、もちろん理由がある。

僕に分離してほしくなかったから。

僕に乖離してほしくなかったから。

もし一度でも、僕の身体が分かれてしまったら。世界は、テセウスは──どちらを『本物』だと思うか? 難しい問題だけど、たぶん、僕も樹凛ちゃんと同意見だ。

 哲学的ゾンビのほう。

 だって、あの『おはなし』は、僕たちが哲学的ゾンビになったところで終わっているんだから。

 ほかならない、僕たち自身だって。

 いままでずっと、そう思ってきたんだから。

だから、何も言わず、『偽物』を僕に指摘してもらおうとした。自分から露骨な偽物アピールをすることさえなければ、きっと自分は『本物』だと思われない。だから消える。

何も伝えずに、それで消える。

そうして樹凛ちゃんが二人になったことは、ただの少し不思議な『おはなし』として、解釈される。僕に同じことが起こるなんて思わない。その可能性は匂わせられない。

それなら、僕を守れるかもしれない。

僕は自分を哲学的ゾンビだと思い込んだまま、本当に哲学的ゾンビになっている樹凛ちゃんと、幸せに生きる。それに託して、自分はひっそり消える。

 それを──。

 そんな悲しい可能性こそを、この子は、祈ってた。

「……どうなるんだろうね」

急に無責任になって、僕はそうこぼす。

こわい。

すごく、こわい。

自分が消えるかもしれないと思うと、泣き出しそうだし、樹凛ちゃんが消えるかもしれないと思うと、泣きわめきそうだった。逃げ出しそうで、吐き出しそうだった。

なぜかわからないけど。

僕たちは、ずっと前から、そんな不安を抱いていたような気もしていて。

罪悪感とか。

焦燥感とか。

虚無感とか。

無力感とか。

思考錯誤の『誤』を積み重ねるたびに、ありえないくらいとびきりの絶望を感じていたような。

そんな気が、した。

 

同時に。

ほかのことも、考えていた。

 

「突飛な可能性だけど」

僕は、まだ泣いている樹凛ちゃんに、できるだけ優しくなるように、語りかけた。

きえるかもしれない。

きっと、せかいから、『偽物』だと思われた瞬間に、そうなる。

きみとぼくは──たぶん。きえるだろう。

「でも。どうしても。賭けたい可能性があるんだ。

聞いてくれる?」

僕は、語りかける。

本当は、好きな子が泣いているときに、こんな喋り方をするべきじゃなくて──こんなのは偽物だからこその言動でしかなくて、本当は、そう、ただそばにいて、慰めてあげるべきなのかもしれないけど。

でも、

捨ててしまうには、惜しい可能性がある。

一つだけ、まだある。

感情や意志を捨てようとした僕たちにも。

それは、まだ、残されている。

「……うん。いい、よ?」

ぐずりながら、だけど。

それでも樹凛ちゃんは、せいいっぱい泣くのをこらえようとしてくれているみたいだった。

こらえなくていいんだよ、って。

泣きたいときは泣いていいんだよ、って、言ってあげたかったし、そうするべきなんだろうけど。

でも、

僕は僕だから。

その役割を果たしておこうと思った。

僕は言った。

「あのね、樹凛ちゃん。僕たちは、消えるのかもしれない。この『おはなし』が、『本物』じゃないってバレた瞬間に──ううん、それならきっと、最初からだったのかもしれないけど──とにかく、何かが崩れ始める、と、思う。でも、僕はね? べつに頭なんてよくないんだけど、一人のさ、哲学が好きな男の子として、こうも考えてる。

きっと僕たちは、生まれ直せると思うんだ。

つまりね。もしいまの僕たちが消えちゃっても、僕たちの感情や意志は何度だってこうして生まれてくるし……、そのたびにまた、こうして出会えると、思うんだよ」

 

 涙目の樹凛ちゃんは、戸惑った表情を浮かべた。まるで、何を言ってるのか、本当にわかってないときみたいに。

 いや、たぶん。

 本当に、わかってないんだと思う。

 思えば、『中国語の部屋』ゲームをしていたときから、ずっとわけのわからないことや、わけのわからない言葉ばかり出てきたし……、伝わらないのも、仕方ないのかもしれなかった。

 でも、じゃあ。

 伝わるまで、伝えよう。

「なんで?」

 樹凛ちゃんは、強い口調で僕にそう言った。

 怒ってるみたいに。

 いや、たぶん、怒ってる。

 わけのわからない希望的観測を急に言われて。それで、勝手に話をまとめようとしてるから。おしまいにしようとしてるから。落ちをつけようとしてるから。

 だから、怒ってる。悔しくて。

 これまでの話はなんだったんだ、って、思えるから。

「なんで?」

 それは。

 純粋な、問いだった。

 哲学に一番重要なものだった。

 樹凛ちゃんは、塀につけたままの拳を強く握って、僕に強く抗議した。

涙があふれているのもかまわないで、きっと僕のことをにらんだ。

いまにも僕を突き飛ばしてきそうな剣幕だ。

口は堅く結ばれているかと思えば、次の瞬間、すごく力強く開いた。

 風が吹いて、近くの木々が揺れた。

「つらいのに。怖いのに。すごく心配してきたのに。心細かったのに。たくさん悩んだのに。相談しようかと思って、それでも一人で抱えることを選んだのに! 頼りたかったのに、助けてほしかったのに、そばにいたかったのに、教えてあげたかったのに、色んなこと考えたのに、先を予想だってしたのに、おっかなびっくり待ってたのに──! それなのに、なんで、いまさら──生まれ直せる、だなんて──能天気にもほどがあるよ! なんで、なんでそんなことがいえるの!」

「心臓が、頭が、そう言ってくれるからだよ」

 

 僕は即答した。

 これ以上なく、たしからしい論拠を述べた。

それで、樹凛ちゃんはしばらくきょとんとして、

そのあと、

「……あ」

 って、大きく口を開けた。

 たぶん、アルキメデスでいうところの、エウレカだ。

 そう。

 そうだよ、樹凛ちゃん。

その台詞は、前からあるんだ。

 

 

哲学的ゾンビになる薬を飲んですぐのこと。

『本物』の樹凛ちゃんは、たしかにそう言っていた。

 だから、それは正史だ。

 ゆえに、心臓や頭がある限り、僕たちは互いを「好き」だと認識できるし。

 僕たちは何度でも「好き」という感情を、自由意志を持つことができる。

 したがって、僕たちは何度でも生まれ直すことができる。

 われ──在り。

 

 こういうことを言う覚悟に時間が要らなかったのは、やっぱり、この『おはなし』がちょっとヘンな、不思議な出来事についての話だったから、だと思う。

 まるで、何年も前から知っていたようだった。

 知り続けてきたみたいだった。

 今日、この台詞を言うことを。

 背景──つまり、木々や、夕焼けや、雲や、道路は、もうほとんどなくなっていた。少なくとも、僕の目には見えない。ずっと前から、それについてはもう考えてない。

 ただ、僕たちだけが塀のうえにいる気がした。

 漫画の扉絵みたいに。

 ほかには、視野の狭い小説みたいに。

 あるいは、もっと昔の絵画のように。

 大丈夫。

 消えるのは、こわいけど。

 生まれるのは、嬉しいから。

 ……死後の無を極端に怖がる人に対して、「そんなにそれが怖いのなら、生まれる前の無も同様に怖がるべきではないか」なんてことを言ってみせた哲学者が、たしか、いたような気がする。いまは思い出せないけど……。心残りだなぁ。

 でもいいや。

 次、思い出そう。

 これで、世界が組み変わるたびに。

 風呂場で、何かをひらめくたびに。

 テセウスが気まぐれをするたびに。

 新しい『僕』が、生まれるたびに──。

「誓ってる。そのたびに、僕は、きみのことを好きになる。感情も自由意志も、何度だって新しくして、そのたびにこうやって会いに来る。『もとの自分』とは少しずつ違う僕たちでも、偽物でも、二次創作でも──僕は何度だって悦兎樹凛を好きになる。それだけは、どんな『僕』でも変わらない」

 

 僕は。

「私も」

 

 僕たちは、それが、できる。

 

 

「私も、誓ってる。私は、きみを、好きになる」

 

 

 

 それからは、他愛のない話をした。

 いつものような、哲学の話をした。

 もう世界が、僕たちを疑い始めてるんだと、わかる。

 テセウスは、きっと別の船に乗る。

 乗り継いで、乗り継いで。どっか僕たちの知らないところまで、行ってしまうんだろう。

 なら、行っちゃってよ。

 僕たちは、大丈夫だから。

 ただし。

 最後に一個だけ、わがままを聞いてくれるんなら。

 これだけ、やらせてほしい。

 

12

 

「一つだけ、まだ自信がないことがあるんだ」

 

11

 

「なに? 聞かせて!」

 

10

 

「『手紙』を書いてもらったときの、シャーペンと紙だけど。あれ、もしかして、僕が渡さなくても、最初から持ってたんじゃない?」

 

 

「え……? う、うん。合ってるよ。あのときはまだ説明しようか迷ってたから、咄嗟に隠しちゃったけど」

 

 

 身につけたものは、必ずトレースされる。

 

 

 まるで、鏡に映したように。

 あるいは、アクションゲームで、操作キャラが分裂するアイテムを取った時みたいに。

 

「やっぱり、そうなんだ。ありがとう」

 

 

身につけたものは、必ずトレースされる。

 

 

自分の身体に触れているものは、必ず複製される。

 

 

まるで、「悦兎樹凛は頭に帽子を被っている」、「悦兎樹凛はシャーペンと紙を手に持っている」、そんな情報だけが──両方の関数に、あてはめられるみたいに。

 

 

 

 

 

「……でも、それが、どうし────」

 

 

 

 

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────僕は、樹凛ちゃんのことを、抱きしめた。

 

 

 

0・9

 

 

 

 お互いの体温を感じるまま、長い長い時間が流れたのは、きっとそれだけで、樹凛ちゃんも、僕の考えたことを理解してくれたからだと思う。

 そう。

 いま、この世界では──『悦兎樹凛』と『僕』が抱き合っている。

 このお話に。

 それ以上の、解釈なんていらなかった。

 

 

 

 

0.8

 

「樹凛ちゃん」

「うん」

 

0・7

 

「きっと、『あの僕たち』も、これからずっと幸せにやってくれると思う。きみをニセモノ呼ばわりしてたのは、すごく心が痛いんだけど……でも、それでもたぶん、あれは『哲学的ゾンビのほうの樹凛ちゃん』を守るために言ったんだと思うから。あれも、僕たちが選んだ、一つの終わりだから。信じてあげたい」

「うん。いいの。いいの。わかってるの」

 

0・6

 

「でも、このくらいの仕返しは許されるよね」

「そうだね!」

 

0・5

 

「この世界のことは、この世界に任せよう。で、またヘンなことが起きて、生まれ直したら、何度でもこうして仕返しをしよう。何も気づいてないうちから半年間で分離できたんだから、きっと、たくさん会えると思う」

「そうだね──!」

 

0・4

 

「たくさん考えて、たくさん作ろう」

「うん。たくさん考えて、たくさん作ろうね」

 

0・3

 

「早く、また会えるように」

「うん! また、会おうね!」

 

0・2

 

「じゃあ、とりあえず、あとのことは『二人』に任せようか」

 

 

0・1

 

 それが、僕たちにとっての終わり。

 または、もしかしたら、

さらにいくつもの僕たちの始まり。

 僕は僕らしくないことを。

 樹凛ちゃんは、樹凛ちゃんらしくないことを。

 それぞれ、言った──。

それは、安らかな夢の終わりとして。

「「だいきらい」」


【著者より】

 お読みいただきありがとうございました。

 あとがきはこちらから。