2024/3/7

 『ウルトラマンダイナ』の最終回を見ました。いや〜〜、めちゃくちゃおもしろかった……。本当によかったです。主人公のアスカは一人で突っ走りがちな熱血バカなので、小さい頃はそんなに好きじゃなかったんだけど、いま見るとアスカより愛着の湧くウルトラ主人公もなかなかいないかも。


 父親を早くに失ってずっと寂しかったのが節々から伝わってきて、やっとスーパーGUTSに入れたと思ったら身に余るウルトラマンの力を授けられて……。「危うい」のがすごく伝わるんだけど、最終的にはスーパーGUTSのみんなと仲良くなって、帰る場所ができて。よかったなぁ……( ; ; )  正直終盤は雑な回も多くて不安が強かったんだけど、最終三部作で完全に評価が塗り替えられてしまった。ダイナは名作だ。


 夜、大学の友達からLINEが来た。友達と言っても会って話したことは5回くらいしかない気がするし、LINEだって1年10ヶ月ぶりである。それでもその人のTwitterが大学で一番好きである、という理由だけで勝手に友達だと言い張り続けている。そんな相手だ。


 冷笑やイタめの地元ノリがはびこるインターネットで、「あのころの楽しさ」を見つけるにはどこに行けばいいんだろう?  って話をされて、ちょうど僕が考えていたことと同じだったからびっくりした。いや、というより、僕がそういうことを考えていそうなのがわかってたから、話し相手に選んでくれたのか。書いててわかった。


 話しているうち、僕と彼の「あの頃のインターネット」観が違う、ってことがわかった。彼はニコニコ動画(原宿)で、僕は完全にTwitter。


 僕は、考えてみれば、Twitter自体にさしていい思い出はない。DMで告白してもらえたけど2週間でフラれた彼女、小中の頃のイタい言動、馴染めなかった創作界隈、陰口ばかりで嫌気がさした大学界隈の縮小垢。どれもいい思い出とは言えない。ただ、それでも、「うまくいかない現実から隔離された、もうひとつの空間」として、僕はTwitterが好きだったなと思う。学校じゃうまく話せないし、運動もできないけど、こっちならうまく話せるし、少しならおもしろいダジャレも言えるぞ!  あるいは……共感してもらえる悩みの話もできるぞ!  みたいな。「Twitterが良いこと」を、現実でダメ人間である免罪符にしていた節がある。


 僕は高校生の頃まで、「緩みきった声」「なに考えてるのかわからない濁った目」などの特徴から、周囲に「マジで何も考えてないまま謎の失敗を繰り返し続けるクリーチャー」だと思われていた。でも本当は色々……僕も話が通じる人間で、ちゃんと色々なことを認識しているんだって、本当はみんなに伝えたかったのだ。しかし現実だとそれができないので、Twitterで、「自分は本当はこうなんです」と叫び続けていたのだと思う。誰にともなく、強いて言うなら世界に言い続けていた。そうでもしないと、本当にクリーチャーになってしまいかねなかったんだと思う。オタクだから、現実で本当に好きなものが一緒の友達と話すことなんて滅多にできなかったんだけど、それを受け入れると、自分がそれを好きじゃない人になったみたいで嫌だった。インターネットで、「自分は本当はこんな人間なんです」と言い続けることが、是非は置いといて、僕の存在証明だったと思う。


 いまは、どうしたらそれができるんだろう。「本当はこんな人間なんです」って、どうしたら言えて、どうしたらみんなに認めてもらえるんだろう?  どこ行っても誰の投稿見ても、「通学や仕事をしている人の楽しい余暇の時間です」って感じで、取り付く島もない。日常を充実させるためのツールじゃなくて、「もうひとつの日常」としての居場所を探していた。人生がふたつほしいだなんてわがままでしかないのかもしれないけれど、それでも僕と同じ仕方で救われていた人たちはたくさんいたはずで、彼ら彼女らはいまどうしているんだろう、ってことばかり気になっている。僕は助けてほしい。もはや現実が楽しくても、楽しくないほうの人生がもう一個ほしくなっちゃった。