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短編小説「シェケナベイベー」

 

【著者より】

 文字数は8,300字程度。

 高校生のころから最近まで「年上のお姉さんに誘拐されて、誰も知らない場所に行って、でも特に何もひどいことをされなくて、やがて彼女は逮捕されて、真意もわからないままに『誘拐された』という事実だけが残ったまま生きていきたい」という切実な欲望を抱えていたのですが、それに向き合った作品になります。

 短編小説の賞に出したので短くまとめていますが、ほんとうに小説として書くのであれば、この十倍は文字数が必要な作品です。だから、話の接続はしっちゃかめっちゃかだし、ない小説のプロットを読まされているような感覚になるかもしれません。それでも、僕にとって、いまの自分が何を考えているのかということを知るには、これを書くことが最短の道でした。

 物語とも言えないような出来ですが、夢骨とみやの作品として読めば、どこかに楽しみ方を見つけられるのかもしれません。余計な部分どころか必要な部分すらもそぎ落としたこの文章は、きっと、ごく正直に書かれていることでしょう。それはそれとして、どこかでリベンジはしたいですが。

 

 末尾のリンクから、pdfファイル(縦書き、二段組)をダウンロードすることができます。

シェケナベイベー


 目が覚めると、ケージに入れられた両親がじっとこちらを見つめてきていた。大型犬用の檻に入れられた二人。母さんは混乱から途轍もない速さで頭を掻きむしっており、父さんは、真っ白い格子をぐっと握ったまま、「出せ! 出せ!」とわめいている。

 その隣には、安藤さんがいた。

 安藤さんとは、ついさっき会ったばかりだ。二十代前半くらいの女性だ。なぜか白衣を着ていて、なぜかぼくの家に侵入してきて、なぜかぼくの両親をケージに閉じ込めてしまった。しかも自分のことを感情のないAIアンドロイドだと自称するイカレっぷりである。

 彼女は手にスタンバトンを持っている。

 反抗的な態度を取れば、イチコロだろう。

 

「さて」

 

 安藤さんは、広いリビングで一呼吸置いた。

 

「可香谷くんであってるかな……。白菊可香谷くん」

 

「はい」ぼくは従順に返事をした。

 両親は眼をひんっ剥いてぼくを見つめている。

 悪いが、でも、いま彼女の問いかけを否定するわけにはいかない。

 

「よかった! じゃあ、可香谷くん。ちゃんといままでの記憶を失ってくれたかな?」

「はい」ぼくは迷わず肯定した。

「この人たちのことは? 思い出せる?」

「それが両親だってことは思い出せます。でも、この人たちに何をしてもらっていたかは、全く記憶に残ってないみたいです」

 

 ぼくがそう言うと、安藤さんは「うん! 正しく記憶喪失になってくれたみたいだねっ」と白衣の裾を揺らして、両親は絶望に歪んだ表情をした。

 

「やめて……! 殺さないでぇ!」

 

 と、母さんが言うので、安藤さんは舌打ちをして、

 

「安心してよ。わたしは誰も殺さないの。ロボット三原則だから」

 

 なんて謎の返答をしてみせた。

 ぼくは悟ったが、両親はおそらくこのまま死ぬだろう。ケージの装備は厳重で、内側から開けることはできそうにない。何せ南京錠がかけられているのだ。そしてケージから電話は遠い。というか、そもそも安藤さんが電話線を引きちぎってしまっている。彼女が手を下さないことを宣言したいま、両親はひとまず胸を撫で下ろしているようだったが──あまりにもザコの反応だ。これから二人を襲うのは、全ての死の中で最も苦痛を生む死、餓死である。

 もっとも、パチンコで作った借金を中学三年生のぼくに押しつけてくる父さんと、いい成績が取れないとヒステリーを起こして警察に通報する母さんに、きれいな思い出はない。

 

「じゃあ、行こうか!」

 

 と安藤さんが素敵な笑顔でいうので。

 ぼくは、そちらに着いていってみることにした。

 

 

 

 どちらにせよ人生はめちゃくちゃになっている。記憶喪失を装っているぼくは、駄菓子屋で安藤さんが勧めるおやつにいちいち驚いたふりをしたりしながら、改めてそんな認識をした。

 いまは一月。

 高校受験に向けて猛勉強をしていたぼくだったが、こないだ父さんが、母さんが必死につくっていたところの受験用の貯金に手をつけてしまったので、ぼくは中卒になることが決定したのだった。その兼ね合いで、両親は大喧嘩した。

 ただの離婚で済めばよかったのだけど、訴訟に発展した。

 それは現代社会の闇でもなんでもなく、純粋な、馬鹿げた二人の馬鹿げた殴り合いだった。娯楽としては、見世物としては、この令和にこれ以上のものはない! と当初は興奮したぼくだったが、母さんは訴訟で忙しいのでご飯を作ってくれなくなり、三日もあれば民事裁判より、冷蔵庫からくすねることのできる生卵の数のほうに関心が向いていた。

 そんなぼくだから、いま、安藤さんに駄菓子を勧めてもらえていることが、とても嬉しかった。

 嬉しくて、涙すら出そうだった。

 

「……どうしたの? 可香谷くん。悲しいの……?」

 

 でも、安藤さんがすごく悲しそうに、そう顔を覗き込んでくる。

 

「大丈夫だよ、安藤さん。ぼく、全然悲しくなんかないよ。ただ、なんだか、少し懐かしいような感じがして」

 

 そんな戯言を、伝えておいた。

 

「そっか」

 

 黒髪ショートボブの安藤さんは、立ち上がった。

 

「これはコーラガム。コーラの味がして、やわらかくておいしいよ。しかも、なくならないんだ。こっちは棒つきアイス。冬に食べるとおいしいんだ。それでね、こっちは……」

 

 安藤さんは楽しそうに、踊るみたいに、縦横無尽に駄菓子屋の店内を歩いて回った。色んな商品を、記憶喪失であるところのぼくに紹介してくれた。

 この店にいつもいるおばちゃんは、いま、いない。ここに来たとき、安藤さんは「定休日」と書かれたコピー用紙を丁寧にはがした。

 そうして、色んな駄菓子を食べるためのテーブルに、ぼくを座らせてくれたんだ。

 

「……ありがとう」

 

 ぼくは、意味のわからない感情にとらわれながら、安藤さんにそう伝えた。今度は本当の本当に泣きそうになって、というか、白衣ではしゃぎまわる安藤さんの姿がなんだか見ていられなくなってきて、ついテーブルに突っ伏してしまった。

 すかさず安藤さんのすべすべした手は、ぼくの頭を撫でた。

 どちらかというと、白衣のざらざらした生地の触感のほうが、印象に残った。それからぼくと安藤さんはたくさんの話をした。

 

「安藤さん、下の名前は?」

「安藤ろど、だよ」

「『い』はどこにいったんですか?」

「『う』に変わったの」

「アンドロイドなのに、手、あったかいです」

「そうでしょう? 最新式なんだよぉ」

「安藤さん。ごめんさない」

 

 ぼくは貴方のことが好きです。

 

 

 

 詳しく説明する。

 ぼくは元々、死にたかった。

 本来、自殺しようと思っていた。

 外をひと通り散歩しよう。喋ったことのないクラスメイトの家を、知っていれば知っているだけピンポンダッシュしよう。疲れたら電車に乗ろう。いま財布を忘れてきてしまって、でも次の電車に乗れないと大切な私立受験に遅刻してしまうんですって駅員さんに行って、無賃乗車の契約書を書いて、駅のホームに忍び込んで、そして揺蕩うように自殺しよう。

 そうだ、電車に轢かれよう。

 だから────────────小学校の頃に好きだった子が写ってる卒アルのページを開いて勇気をもらった。大好きなコートを着た。外に出る準備をした。ちゃんと歯を磨いた。母さんの大きな声も、今日だけは無視した。どうあってもその時点で死ぬしかなくなった。父さんはなんだかよくわからないが発狂していた。母さんがトイレに行っているあいだ、冷蔵庫にある生卵を全部床に落として、割った。ぼくは自由だと思ったし、自由だから誰にも助けてもらえない、と思った。当然だ。そうなりたくてこうしているんだ。もう終わりにしよう。そう決めるだけで気分が真っ白になった。

 そんなことをしていると、安藤さんが、我が家の窓を叩き割って参上した。

 黒髪はつやつやしていた。

 白衣はかっこうよかった。

 靴はごついスニーカーだった。

 唇は細くてむらさき色だった。

 近づいてきた安藤さんはまずぼくの首元にスタンバトンを当てた。そうして意識が途切れていった。目が覚めるとぼくの嫌いなものが全部檻の中に閉じ込められていた。それから安藤さんは、ぼくの手を握って、一緒に外を散歩してくれた。

 何より安藤さんはかわいかった。

 国内、数年に一度の美少女だった。

 

 

 

 ぼくは安藤さんの家で一日を過ごした。期待したが、何もなかった。

 このままいけば確実に、安藤さんは逮捕される。

 安藤さんがこんな出会い方をしてくれなければずっと一緒にいられたかもしれないけど、こんな出会い方じゃなければ、ぼくは安藤さんと一緒になることができなかっただろう。なんなんだ、と嘆息すると、ぼくは昨日の夜に着せられたパジャマを脱いだ。

 朝だ。

 

「おはよう、安藤さん」

 

 ぼくが上半身裸のままそう言うと、隣で寝ていた安藤さんは「きゃっ!」と初々しい反応を見せた。

 

「か、可香谷くん……早く服着てよ! えっちなのはだめなんだからねっ!」

「安藤さんってアンドロイドじゃないんですか」

「アンドロイドだからこそ、そういうのは厳しいの! は、早くそこのタンスから私の服を出して……! なんでも着ていいから!」

 

 安藤さんは目を逸らしながら、やみくもに、四畳半の部屋の隅にあるタンスを指さした。

 中を見ると、安藤さんのものと思われる下着類が仕舞われている。

 なんなんだ。今日二回目の嘆息とともに、ぼくはタンスを開きまくった。何度目かで、ようやく、ぼくでも着られそうな無地のTシャツを引き当てることに成功する。

 それを着た。

 下半身のほうは、パジャマの生地がしっかりしていたので、そのままにしておくことにする。

 

「……着ましたよ」

 

 半ば呆れながら、ぼくは紺色のTシャツとともに振り向いた。

 すると、安藤さんはモロにぼくのことを凝視してきていた。

 

「普通に覗いてるじゃないですか」ぼくは呆気に取られて言う。

「だ、だって」

「だっても何もないですよ。……それより、羽織るものってどこかにありますか? この季節にこれ一枚はちょっと寒すぎていて」

 

 ぼくの言葉に、安藤さんは、

 

「あ、それならね!」

 

 と反応し、どたどたと脱衣所のほうに駆けていった。

 置いていかれたぼくは一人になる。

 昨日だけで、安藤さんの家の全容は完璧に理解できてしまった。それはこの家が、一人暮らしの大学生が住むとされるような清貧のアパートだったからだ。関東にあって、家賃は二、三万といったところだろう。

 部屋は一つしかない。それ以外は、風呂とトイレと洗面台が一緒になった場所と、無理やり洗濯機を設置しているらしい脱衣所だけ。玄関はないに等しい。おまけに壁は脆く、少し撫でるだけでパラパラと崩れ落ちてくるものがあった。天井は低い。それから、ゴミ袋が部屋中に散乱していて、寝ようとするなら、その隙間になんとか敷かれた二枚分の布団に、ぎゅっと身を寄せるしかない。だけれども、そんな惨状でも、ぼくは安藤さんの家が好きになった。金もないのにローンを滞納することで賄っていたあの広い家より、ずっといい。

 ただ、同時に空恐ろしくもあった。

 安藤さんは、誰なんだろう。

 

「おまたせぇ!」

 

 と、脱衣所から安藤さんが帰ってきた。

 どうやら白衣を持っている。

 ぼくは脱衣所にあった洗濯機を思い出す。なぜかあれだけが最新式だった。乾燥機の機能もついていた。きっと安藤さんは昨日のうちに、自分が着ていたあれを洗って、寝ているあいだに乾燥させて、そうしていま、ぼくに渡してくれようとしているのだ。

 安藤さんはにこにこしながら、綺麗に畳まれた白衣をぼくに差し出してきた。

 

「はい、どうぞ!」

 

 ぼくは両手でそれを受け取って、着た。裾が相当余った。半袖のTシャツでまもれなかった腕の部分と、白衣の厚い生地が、新鮮にこすれる。あるいは高校に行けていたらこんな感触を味わえていたんだろうか。

 安藤さんが、昨日着ていた服。

 あたたかい。

 

「ありがとうございます」ぼくは感謝をあらわした。

「えへへ、気にしなくていいんだよぉ」

 

 安藤さんはパジャマのまま腕を揺らして笑った。

 アンドロイドならありえないくらい、胸部が圧迫されていた。

 あとでこんな会話をした。

 

「ねえ、安藤さん。白衣が好きなんですか?」

「アンドロイドに『好き』なんて感情はわからないなぁ」

「じゃあぼくのことも好きじゃないんですか」

「ぶ……、それは、ひどいよ、可香谷くん」

「化学が好きなんですか?」

「んーん。──絵を描くのが、好きだったんだ」

 

 

 

 驚くべきことに、安藤さんと出会って三日が経過した。

 まだぼくは安藤さんと暮らしていた。

 夜になったので、二人で「おやすみ」を言い合って、それぞれ別の布団の中に潜っている。

 ぼくは思う。

 安藤さんはアンドロイドで、ぼくは記憶喪失だ。

 その建前を守り続けていく以上、ぼくたちは相互に関係できない。

 でも。

 安藤さんがなぜ、頑なにアンドロイドを名乗るのか。

 そもそも、どうしてぼくのことを知っているのか。

 どんな気持ちでぼくの両親を檻に入れたのか。

 どういう経緯で、いま、この部屋に暮らしているのか。

 ぼくの知らない安藤さんを全部知りたかった。イレギュラーな児童養護系アンドロイドではなく、本当の、無職の二十代女性としての、きっともう壊れてしまっている安藤さんのことを、知りたい。

 でも、それはこの日常の終焉を意味する。

 そんなことを考えながら、ぼくは眠りに落ちたが──しかし。思えば、このときのぼくの認識は、きわめて甘かったと言わざるを得ないだろう。ぼくがどう思っているかにかかわらず。ぼくがどんな行動を起こすかにかかわらず。

 この日常なんて、簡単に崩壊するのだ。

 だって、二人とも、もうめちゃくちゃなのだから。

 

 

 

 一週間後。

 安藤さんは、アパートの三階から飛び降りた。

 

 

 

「大丈夫?」

 

 と、見知らぬ金髪の女性が、隣に座ってきた。

 ぼくたちは、住宅街の、背の低い塀に座っている。

 ちょうど、何回目かの警察の取り調べが終わったところだ。

 

「これ」金髪の人は、コーラの缶を手渡してきた。「きみにあげよう」

「……ありがとうございます」

 

 ぼくは缶を受け取って、プルタブを捻る。

 カシュ、という音がした。

 安藤さんは死んでいない。昏睡状態のまま三日を過ごしたようだが、命に別状はないし、いまは目を覚ましているとのことだ。ただ、どちらかというと、身体の異常というより、精神的な不調が酷いらしい。点滴を挿そうとすると、錯乱して、病室のあらゆる設備をなぎ倒して暴れるのだそうだ。

 

『いや! やめて……! わたしに、そんなものいらない!』

 

 と、さけぶらしい。

 ぼくはコーラを一口飲んだ。

 

「お姉さん、誰なんですか?」

「私? ゆめの友達さ。甲斐田って聞いたことない?」

「ないです」

「……そっか」

 

 時刻は、夕方だ。

 お姉さんが「ゆめのやつ、何も言わなかったんだなー」とたそがれている中、ぼくは「ゆめ」という言葉の響きを咀嚼していた。

 安藤ゆめ。

 それが、あの人の本名なのか。

 どんな字を書くんだろう、と、ぼくは夢想した。

 甲斐田さんは、煙草を吸い始める。見ると、火が赤くなったり暗くくすんだりしていて、甲斐田さんのぎこちない息遣いが伝わってきた。父さんがヘビースモーカーだったからわかるが、あれは、慣れていない吸い方だ。

 それでも、甲斐田さんは苦そうな顔もせず、スムーズに煙を吐いてみせた。

 きっと、才能がある。

 

「ゆめに、誘拐されたんだってね」

「はい」ぼくは答えた。

「警察にも、何回も言われたと思うけどさ。お父さんとお母さん、生きてるらしいね」

「はい」

「でも、きみはそれが嬉しいってわけじゃないんだろ?」

「……はい」

 

 甲斐田さんは優しい声色で、ぼくにいくつかの確認をしてくる。

 どんな表情をしているのかは、見られない。きっと甲斐田さんはぼくのことを見つめてきているだろう。でも、目を合わせるのは勘弁だった。ぼくは誓って逆側に目を遣っている。

 夕方の、果実のような橙色と。

 煙のような紺色が、空では、混ざり合っていた。

 安藤さんなら、こんな色をどう表現しただろう。あの人は、絵が好きだと言っていた。それを聞いた日からも、ぼくたちはたくさん話をして、やっぱりすごく楽しい時間を過ごしたけれど、でも、ついぞ、安藤さんは自分で立てた設定を崩すことはなかった。

 安藤さんはアンドロイドだ。

 だから、自分の話をしない。

 

「さて」

 

 甲斐田さんは煙を吸ったり吐いたりしながら、声をかけてくる。

 

「聞きたいことがあったらなんでも聞いて。友達が迷惑をかけて、これでも申し訳ないって思ってる」

 

 そう喋る甲斐田さんの声は、少し低い。

 が、ぼくはこの人の裏にある物語に興味はなかった。

 

「安藤さんは、どうしてアンドロイドなんて名乗ってたんですか?」

「──ゆめには、将来なりたいものが二つあった」

 

 ぼくの質問を受けて、のはずなのに、甲斐田さんは意味のわからない接続をした。

 話は続く。

 

「一つは、画家だ。ゆめは亡くなった父親の影響で、絵を描くのが好きな子だった。でも、それは、残念だけど、かなわなかったな。

 もう一つは保育士だ。ゆめは子どもが好きだった。自分より歳が低ければなんでもいい、ってとこも少しあったけど、基本的には子どもが好きな優しいやつだったよ」

「その話が、どうしてアンドロイドと?」

「──ゆめは保育士になって、二年で離職した」甲斐田さんは構わずに続けた。「きみ。現代の子どもってのは色々複雑だろ? 不幸な境遇にある子どもに対して何もできない自分や、事なかれ主義の同僚たちが嫌になって、適応障害になったそうだ。私は相談を受けたけど、何もできなかった。ゆめは憧れの職を手放して、安い部屋に引っ越して、一人で過ごすことになった。

 ゆめはその期間、ずっと絵を描いていた。描いた絵は、SNSにアップするようにし始めた。いままで人に見せるのは恥ずかしかったけど、もういいやって気まぐれであげてみたら、それが思いのほかウケたそうだ。千人くらいフォロワーができた」

 

 それはすごいことだ、とぼくは思った。千人。中学校の全校生徒から好かれるのよりも、よほど格好いい。

 と、思ったのに。

 

「けれど──ゆめは絵を描くのをやめた」

 

 断ち切るように、甲斐田さんは、言った。

 そこには、莫大な量の含みがある気がする。

 

「……なんで、ですか?」

 

 尋ねると。

 甲斐田さんは、煙を吐いた。

 

「描いた絵が、AI作品だって疑われたんだって。軽く炎上した。ゆめ、あれさ、すごいおっちょこちょいだっただろ?」

「わかります」

「だから、つい、人の指を六本で描いちゃったんだって。ばからしいよな。でも、それであの子は全部おしまいになった。誹謗中傷が殺到して、ゆめはペンを握れなくなった」

 

 昔話を聞かせるように。

 甲斐田さんは、塀の手前で脚をぶらぶら揺らしながら、語った。

 

「それが、ゆめが自分をアンドロイドだと思い込むようになった理由だよ。色々、壊れちゃったんだ。薬を大量に呑んで自殺しようとした結果、脳の回路も若干、イカれちゃったらしい」

「……そう、なんですね」

 

 ぼくは、何も言えなかった。

 意外と卑近な理由だった、と思う。だけど、それだけに、何も。

 どう感じればいいか、わからない。

 彼女の物語は──あまりにぼくと関係がなさすぎて。

 ただ、俯いてしまった。

 

「結局さ──どこも『社会』なのかね?」

 

 金髪の甲斐田さんは、塀から立ち上がって言った。

 

「私は小説を書いているんだけどさ。それは、誰にも見せたことがない。自分が楽しくやれればそれでいいっていう、趣味だから。きっと、ゆめもそうだったんじゃねえのかな」

「人間が三人以上いたら、きっとそれは、社会ですよ。ましてや、千人でしょ。ぼくにはイメージできない」

「じゃあさ、少年。一人か、二人になるしかないんかな?」

「一人は……」

 

 ぼくは、口ごもった。

 彼女と過ごした日々が、走馬灯のように脳内を駆け巡っている。

 窓を割って侵入してきたこと。

 揺れる黒髪。

 風にはためく白衣の裾。

 両親をケージに入れて微笑んでいた唇。

 ぼくの手を取ってくれたこと。

 駄菓子屋に連れて行ったくれたこと。

 

 

「一人は、寂しすぎますよ。だから、二人が丁度好いんです」

 

 

 ぼくは言った。それから、また思い出す。

 一緒に布団を敷いたこと。

 代わりばんこでお風呂に入ったこと。

 おやすみを言い合ったこと。

 おはようを言い合ったこと。

 意外と器用に美味しい料理を振る舞ってもらえたこと。

 パトカーのサイレンが鳴るたびに怯えたこと。

 住宅街を歩いたこと。

 商店街で魚を買ったこと。

 夕飯が鮪の切り身だったこと。

 家で知らないバンドのライブ中継を見たこと。

 ぼくが彼女のことを好きだったこと。

 彼女にとって、ぼくがなんでもない存在だったこと。

 大事らしい白衣を着せてもらえたこと。

 きっとあの白衣は、絵を描くときのために買ったのに、使えなくなって放置していたもの、だったんだろう。

 

 安藤さんは、死んだわけじゃない。

 でも、アンドロイドの安藤さんは、死んだ。

 

 

「あの人が生きられる世界だったら、よかったのにな」

 

 ぼくは緩く両手を合わせた。

 黙祷の意図があった。

 甲斐田さんは、何も言わなかった。

 

 

 

 捨てたくない思い出というものが、誰にだって、きっと必ず一個以上は存在する。それこそが、ぼくたちを、人間でいさせてくれる。反対に言えば、ぼくは一生、もうアンドロイドになることができない。それでも、大事にしておきたい、かけがえのないものがある。

 ぼくは白衣を着て、とある場所に足を運んでいた。

 周りには、たくさんの、制服を着た中学生たちがいる。

 玄関に無造作に置かれたホワイトボードには、おびただしい数の受験番号が掲示されていた。

 膨大な月日が経過したけれど、ぼくは未だに、一日の中で何回か、安藤さんのことを思い出す。大好きだったんだ。嘘じゃ、ない。あの人がいなかったら、間違いなく──ぼくはいま、ここにいない。

 生きていない。

 それだけは、いくつになっても、声高に主張する。

 あれから、一年浪人して、たくさんバイトをして、補助金も受け取って、高校受験をした。

 三月。

 ぼくは、天に手を掲げた。

 

 


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